令和3年12月

衆生仏を礼すれば
仏これを見給う


法然上人『勅修御伝』 

 「人々が仏さまを拝めば、仏さまはその姿をご競になる」と。もちろん、拝んでいない姿も含め、仏さまはこの私の言動や思いをすべてお見通し。それは、無条件の優しい見守りです。
ある人言わく「科学は私が見る世界、宗教は私が見られる世界」「仏さまは、見てござる」と。お地蔵さま、お仏壇、神棚、先立った方、みんな私を優しく見守ってござる、なのです。
我々が「誰も見ていない、バレなければ」と思うのは、判断基準に人目を置くことが多いから。一方、何かに優しく見守られているからといって、無節操や不誠実で良いはずがありません。では、自分は如何にあり、如何に生きるべきなのか
ー仏教はこの道理を教えます。
実際、目に見えない繋がりで成り立っている我々の生活。時に自他を離れ、認識が及ばない周囲との関係性を感じ、そこからあるべき豊かな自己を培う感覚も必要なことでしょう。
見えない力に背中を押されつつ、前向きに進む日々でありたく思います。
(仏教学部教授 曽和義宏)

「念仏一会」
(画:別科修了生 菊田水月)(製作協力:京都教区浄土宗青年会)

  念仏一会ねんぶついちえ
南無阿弥陀仏なむあみだぶつ、   阿弥陀仏に帰依したてまつります。
南無阿弥陀仏なむあみだぶつ、   阿弥陀仏に帰依したてまつります。
南無阿弥陀仏なむあみだぶつ、   阿弥陀仏に帰依したてまつります。
【法然上人がお亡くなりになる二日前に書かれた「一枚起晶文いちまいきしょうもん」の最後に「たた一向に念仏すべし」とあるように、念仏は上人の教えの肝要である。念仏は『無屈寿経」上巻に説かれる四十八願中の第十八願(念仏往生願)に「もしほとけを得たらんに、十方じっぽう衆生しゅじょう至心ししん信楽しんぎょうして、くにしょうぜんとほっして、乃至十念ないしじゅうねんせんに、もししょうぜずんば、正覚しょうがくらじ」に由来します。そしてこの念仏は心に想う「観想かんそう念仏ねんぶつ」でなく、「やさしいぎょう」で「すぐれたぎょう」の声に称え申す「称名しょうみょう念仏ねんぶつ」であります。】
(解説  宗門後継者養成道場長 稲岡 誓純)

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