令和6年8月

よく自己をととのえた人が人間の光輝である

『ブッダ 悪魔との対話』第Ⅶ篇第一章第九節  

  火を扱う祭司者(宗教者)との対話で、釈尊が説いた言葉━━━自分を充分に整えられている人こそが、人間として光り輝く存在との意です。
 この言葉の前には、次のようにあります。「木片を焼いて生じた 火を浄らかなものとし、その外的な火によって自分が浄らかになれると考えてはならない。私は、内面的にのみ光輝を燃焼させ、常に心を静かに統一し、清浄行を実践する」《要約》
 浄らかと見立てた自分の外側にある対象を扱っても、扱う自分自身を整えることには向かわない━━━自己を整えるための方法は、自己の”浄らかな行為”清浄行〈しょうじょうぎょう〉であると。仏教では、徹底して自己の正しい思念と言動による自分づくりを目指します。
 一方で、多種多様な人間社会での価値基準は、地域や時代で異なり変化するもの。人間としての本質的な輝きに向けた行為(思念も含む)を説く教えは、社会秩序の構築と維持に応じる道徳、同意書や法律とは異なる性質のものと言えます。

(宗教教育センター実習指導講師 法澤 賢祐)

『法然上人の絵物語』第六巻
(画:別科修了生 菊田水月)

第三段 法然上人、東山の吉水に庵を結ぶ
 一向専修の身となった法然上人は、比叡山を出て、まず西山の広谷に居を移した。それから間もなく、東山の吉水のあたりに静かな土地を見つけ、広谷の草庵を移して、住居と定められた。訪ねて来る者があれば、浄土の教えを説き、念仏の行を勧められた。やがて、念仏に帰依する者はまるで雲霞のように多くなった。

菊田 水月

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