令和6年11月

今日をどのように過ごすべきか

 今日を楽しくやりがいのある一 日として過ごすことが大切である、となりわ多くの人は一言うであろう。しかし、研究を生業なりわいとしている者は、必ずしもそのように一日を過ごすことはできな い。今日は、一年後ないしは二年後の論文作成のための史料収集に充てられ、明日はその分析に使われることになる。今日は常に、いつか「完成」するための論文作成の過程でしかない 。さらに「完成」という言葉は適切ではない 。論文は常に「不完全」であり、いつも「とりあえす」の「完成」である。
 私の今日は、常にこの繰り返しである。「不完全」なものを「完成」させるという矛盾に満ちた一日を繰り返すのである。とてもやりがいのない無為な今日の過ごし方のように思える。しかし、昨日と比べると今日は「不完全」な「完成」に少しだけ近づいているのである。そして、その「進歩」と評することが、おそらくできるであろう今日の過ごし方ができることに喜びややりがいを見出すことができるか否かが重要なのであろう。

(歴史学部教授 麓 慎一)

『法然上人の絵物語』第六巻
(画:別科修了生 菊田水月)

第六段 法然上人、凡入報土の義を示す為、浄土宗を立てる
 法然上人は、ある時、人々に語った。「私が浄土宗を立てたのは、凡夫が報土に往生することを示すためである。天台宗や法相宗では、凡夫の往生は認められていない。別宗を立てなければ、凡夫が往生する義も、本願の不思議な力も隠れてしまう。それゆえに、善導の釈義に任せて、確かなる報身報土の義を立てたのである。」

菊田 水月

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