令和6年12月

思ひどく心ひとつになりぬれば 氷も水もへだてざりけり

千載せんさい和歌集』式子内親王家中将しきしないしんのうけちゅうじょう  

 平安時代末期の勅撰ちょくせん『千載和歌集』に載るこの歌には、「煩悩即菩提ぼんのうそくぼだいの心をよめる」という 詞書ことばがきがあります。私たちか持つ煩悩は、実は悟りを開くためのきっかけとなるものであるという意味ですが、この歌はそうしたこころを詠んだものです。
 そう言われても、凡夫ぼんぷの私たちにはなかなかわかりにくいところがあります。そこでよく用いられるたとえが「氷」と「水」です。氷は固体であり、水は液体で、外見は全く異なります。また、氷は冷たいですが、水は冷たいとは限りません。しかし、 氷も溶けてしまえば水になります。つまり、 一見異なる性質のもの、対立していると思われるものでも、よくよく考えてみると実はひとつのものであったと気づくわけです。
 ただしそのためには、「思ひとく」、すなわちものごとをよく理解するまで突きつめて考え、智恵を得ることが求められて います。つまり煩悩の氷を功徳の水にできるかどうかということは、氷を溶かすほどの智恵の火を但寸られるかど、つかとい、つことでしょう。

(歴史学部教授 麓 慎一)

『法然上人の絵物語』第六巻
(画:別科修了生 菊田水月)

第七段 法然上人、信寂房に聖道・浄土の二教を宣旨に譬えて示す
 播磨国の信寂房に、法然上人は次のように尋ねられた。「ここに天皇の命を伝える宣旨が二通ある。それを取り違えて、鎮西の宣旨を坂東へ、坂東の宣旨を鎮西へ下したとしよう。その地の人はその命に従うだろうか。」信寂房は、宣旨であったとして も取り違えたものには従うことはできない、と答えられると、上人は「あなたは道理をわきまえた人だ。そのとおりだ。」とお答えになった。この宣旨は釈迦の遺教を譬えて示したものである。

菊田 水月

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