令和4年10月
明らかな智慧によって生きることが
最上の生活てある
『ブッダ 悪魔との対話』第Ⅹ篇第十ニ節
神からの質問「どのように生きることを、最上の生活と言うのか?」に、釈尊か返した言葉。自分なら、何と答えるでしようか。”なぜ””何のために”ではなく、”どのように”生きるか・・・・・・。
これに対して、「完全なさとりに依って 生きる生活」と答えた釈尊。
釈尊は、とらわれをすべて離れ、世の原理を実体無いものと見極める認識力を得て、苦しみの無い究極の境地へ到達。言うなれば、到達すべき究極の境地〈 目標 〉があり、そこへ到達する方法〈 手段 〉があり、それは到達〈 獲得 〉できるということ。
では、「最上の生活 」へ向けて追従すべき具体的内容、手段、日常とは ・・・・。まさしく我々のあり方、生き方とは・・・・。
釈尊は、その具体的な実践行為と精神修養を、究極の境地から多様に教えているのです。智慧の獲得へ向かって、見方や考え方をコントロールできるように。穏やかで安定した心を培いながら生活できるように。
―我々が生きるために。
(宗教教育センター実習指導講師 法澤 賢祐)
『法然上人の絵物語』第二巻
(画:別科修了生 菊田水月)
第二段 勢至丸、菩提寺に入る
美作国に菩提寺という山寺がありました。その寺の院主、観覚得業は母秦氏の弟で、勢至丸にとっては叔父にあたります。父の遺言のこともありましたので、勢至丸は菩提寺に入って観覚の弟子となり学問に励みました。彼は流れる水よりも速く、一を聞いて十を理解し、そして一度聞いたことは全く忘れることがありませんでした。
菊田 水月