令和5年7月

おのれを知るを 物知れる人といふべし

兼好法師『徒然草』   

 ある僧がある時、鏡で自分の顔を見てあまりの醜さに気がっき、嫌気が差したそうです。「顔をつくづくと見て」とありますので、今日初めて知ったというわけではなく、改めて認識したということなのでしよ う。
 しかし兼好法師は「外見を知れ」と言っているわけではありません。その後に「賢こげなる人」(賢そうな人)は人のことばかり問題にして自分のことを知らない、と続けています。また、自分のことを知らないで、他人のことがわかるという道理はない、とも述べています。つまり「おのれを知る」とは自身の内面を知るということです。
 外見は鏡にそのまま映りますが、内面を知ることは容易ではありません。特に自分の欠点からは、目を背けがちです。しかし兼好は、自身の内面の欠点に気がつかなければ、他人からの指摘や評価を素直に受け取ることができないと述べています。
「物知れる人」(道理を理解している人)とは、自分の欠点やつたなさを知っている人です。そうした認識が、自分自身の成長につながります。

(文学部准教授 浜畑  圭吾)

『法然上人絵物語』第四巻
(画:別科修了生 菊田水月)

第二段 嵯峨釈迦堂清凉寺に七日間参籠
 保元元年、二十四歳になった法然上人は、叡空上人に暇を願い出て 、嵯峨釈迦堂清凉寺に赴きました。この寺の本尊である釈迦如来像は、インドから中国、そして日本へと伝わった「三国伝来の霊像」として、また、釈迦在世の時の姿を刻んだ「生身の釈迦像」として、多くの人々から信仰を集めていました。法然上人は、「生身の釈迦像」の前にひれ伏して、ただただ求法を祈って、七日七夜の参籠を勤めたのでありました。

菊田 水月

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